トップ 》 松岡 佑子のティールーム
▼第一回 魔女の躾

▼第二回 ある魔女の歴史

▼第三回 

▼第四回 

▼第五回 

▼第六回 

▼第七回 

▼第八回 邦題決めるも
ひと苦労

▼第九回 魔法の力を手に

▼第十回 相馬恋しや

▼第十一回 欧州礼讃

「魔法の力を手に」
〜ハリーと出会った私〜

「雲の上はいつも太陽が輝いている」。これは単に慰めの言葉ではない。雲の上は本当にいつも青空がある。幾重にも重なる雲を突き抜けたとき、目の前が急にまぶしくなり、燦々と光溢れる空が現れる。

ハリー・ポッターの物語に出会って以来、空飛ぶ箒を手に入れたかのように、私は何度も、飛行機で雲を突き抜けた。機内での隔絶された時間が、私に不思議な解放感を与えてくれる。国籍も仕事も忘れ、自分が何者かさえも忘れて窓から空を眺めていると、まるでハリーと一緒にキングズ・クロス駅の「9と3/4番線」を通り抜け、マグル(魔法を信じない人間)の世界を離れ、ホグワーツ魔法学校に向かっているような気持ちになる。

もちろんマグルの世界は厳然として存在する。旅が終われば同じ現実が待ち受けている。私は日本人であり、出版社社長であり、諸々の社会的つながりを持っている。時差で一時的に「逆転時計」効果を楽しんでも、やがて元の時間帯に戻る。何も変わりはしない。それでも元の世界に戻ったとき、自分が少し変わったような気がするのだ。旅をするとそんな気持ちになる。ひたすら移動するという一見無駄な時間が、心に風を送り込んでくれるのかもしれない。

初めてハリー・ポッターに出会ったのも旅先だったが、魂が空に舞い、更に別世界に旅する思いがした。夢中で読み明かし、翌朝、英国の出版社に版権交渉の電話をしたときの私は、既に魔女になっていたに違いない。心が高揚し、すべての常識を忘れ、ただ情熱に突き動かされていた。

版権がとれてみると、資金も知識も人脈もないという、厳しい現実が待ち受けていた。しかし、物語を読み返すたび、私は魔女になり、現実の恐れは吹き飛んだ。本を訳しながら、私の心は現実を離れ、魔法の世界を旅していた。

ハリー・ポッターは一年に一度マグルの世界に戻ってくる。そこには厳しい現実が待ち受けている。しかし、ホグワーツの世界を旅したハリーは、もはや昔のハリーではない。人生を経験し、自分が何者かを自覚し、その上魔法という力を身に付けている。そして本来変わるはずのないマグルの世界を、ハリーは徐々に変えていく。

「大人が中心の世界で、子供たちは無力だ。しかし、魔法が使えれば、子供も大人と同じことができる」。作者J.K.ローリングは、この物語が子供たちに人気がある理由についてこう語っている。子供に限らず、大人もしばしば無力感に襲われる。ハリー・ポッターの物語は、そういう人たちに力を与えてくれる。

物語の世界に心を遊ばせることは、旅をすることだ。物語の世界に浸って、雲の上のまぶしい光を浴びることで、心が潤い、魔法さえ使えるような気分になる。物語の旅が終わり、現実の世界に戻ったとき、どこか自分が変わっていることに気付く。そして、その変わった自分が、今度は現実を変えていく。

読書の旅は一人旅だ。自分を見つめる機会を与えてくれる。しかし、一人になることで、かえって人間にとって共通に大切なものが見えてくる。現実に囚われない根源的な魂の声が聞こえてくる。たとえば愛、友情、勇気……。魂を揺すぶられ、現実から心が解き放たれたとき、人は魔女にも魔法使いにもなれるのだ。(共同通信2004年正月企画仮題「旅」掲載)



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