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「声」
惚れ惚れする声というのはあるものだ。亡夫との馴れ初めの一因は声だったように思う。深みのある柔らかな声だった。通訳の中にも「オッ!」と通訳室を見上げてしまうような声の持ち主がいる。もちろん、話し方にもよるのだが、心地よい響きの「声」がある。かく言う筆者も、実は同時通訳者として、会議の最中、多くの聴衆を心地よい眠りに誘ったものだ(声のせいかどうかは定かではない)。
ハリー・ポッターの表紙を描いてくれているダンは、歌の上手さもプロ級だ。「外国人のど自慢」とかいうテレビの番組に出て、紋付袴姿で「荒城の月」を歌って優勝したこともある。イッセー尾形がイギリス公演をするときはダンがその英語版を「同時通訳」する。つまり、舞台のしゃべりに合わせて英語の台本を読み、英国人の観客はイヤフォンを通してそれを聞くのだが、歌の部分になると、ダンが上手すぎて、舞台の本人を喰ってしまうほどだ。
ハリー・ポッターの本を読むと、私には登場人物の声が聞こえてくる。だから映画を見るとき怖かった。姿かたちのイメージを壊されるのも怖かったが、声のイメージを壊されるのがもっと怖かった。結果は・・・・・・スネイプの声には納得した(もっとも声を出す場面はあまりないが)。日本語の吹き替え版は見ていないのでなんともいえない。
声にはいささかこだわりがある。静山社主催のハロウィーン・パーティの司会者も、落ち着いた年齢の落ち着いた声の人という条件をつけている。最近のテレビ番組は、崩れた日本語を黄色い声で喚くタレントで氾濫している。聞くに耐えない。なぜかすっとんきょうな甲高い声と日本語の乱れが必ずセットになって登場する。どちらかを矯正すればもう一つも直るのかもしれない。
究極の声は、無言だ。言葉を飲み込んで、万感溢れる無言。これほど美しい声はなく、これほど人の心を打つものはない。テレビドラマ「北の国から」ではこれをたっぷり味わわせてもらって、嬉しかった。
亡夫の「夫婦」の理想は、無言のコミュニケーションだった。言葉の要らない理解だった。生前には達成できなかったものを、悲しいかな、その人を失ったいま、私は達成したように思う。重要な決断を迫られるとき、私は亡夫に語りかける。あの人ならこう言うだろうと、はっきり声が聞こえる。それだけ強く、亡夫の考え方、生き方に影響されていたということなのだろう。十二月二十五日、五回目の命日がくる。
(「新文化【風信】」2002年12月12日号掲載)
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